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ブーブーがパンクしてまった(´༎ຶོρ༎ຶོ`)

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去年の3月に買い、2万キロ走ったクルマが、とうとうパンクしてしまった。

 

仕事から帰る時、「どうもクルマの左後ろの様子がおかしいな。。。」と思ったら、これである。

 

なので、JAFに依頼したが、その場ではどうにも直せなかったので、タイヤ屋さんにクルマごと持ってってもらい、新タイヤに替えてもらった。

 

総額、2万円。

 

いやはや、なかなかの出費だ。

 

タイヤ交換自体は9,000円だったが、JAFに入会していなかったものだから、余計にかかってしまった。

 

やれやれ。

針のむしろ的な、あるいはそれに類するような。

やるべき仕事が多すぎる。

 

数ヶ月前に比べて、明らかに仕事量が増えている。

 

それは、或る新規事業の、一部門の責任者となったこともあるからだ。

 

しかし、それに比例して、私の仕事のスキルがアップしているわけでは全くない。

 

むしろ、仕事の優先順位付けがフラフラし、逆に重要なことが抜け漏れてしまい、上司たちに怒られまくっている。

 

もちろん私が仕事ができていないこともあるが。。。

 

やれやれ。

 

針のむしろかよ。。。

 

逆切れのようでみっともないが、

 

「この野郎」

 

と、思うこともある。

 

…しかし今書いていてふと思ったが、

「この野郎」と思うところが、一つの転換点ではないか、と思う。

 

「この野郎」から次のステージへ。

 

昔から、「ピンチはチャンス」と、言うように。

 

山本昌×佐山】「この野郎」と何回思えるかが、成長のカギ https://newspicks.com/news/1635304/

 

 

 

「オトコを動かす さしすせそ」とは何か?

以前小林麻耶さんが、テレビかラジオかは忘れたが、

 

「オトコを動かす さしすせそ っていうのがあるんですよぉ〜!!(^ ^)」

 

と言っていた。

 

それは、

 

さ 流石ですね〜!
し 知らなかったぁ〜!
す すごぉ〜い!
せ センスいいね〜!
そ そぉなんだ〜!

 

である(らしい)。

 

これを分析すると、相手の話をよく聞いて、その上で相手を褒め称え、自己はへりくだる、という姿勢が大事、ということが分かる。

 

デール・カーネギーを始め、あらゆる営業のコツ関係の本にも書いてあるが、相手の話をよく聞く、ということは肝要、と、どの本にも書いてある。

 

その鉄則について、小林麻耶さんも語っている。

 

芸能界の人も、実業界の人も、同じことを言っているということは、これ真理なのかもしれない。

 

 

ブリカマぶるーす

ブリカマぶるーす

 

 

 

プライドとは何か? 〜ひとつの意地についての一考察〜

最近、というかここ1、2年でずーっと考えていることがある。

 

プライド、について、である。

 

プライドというと、確か岡田斗司夫氏か、内田樹氏かは忘れてしまったが、

 

プライドって、「オレはお前とは違うんだぞ。」ってことですよね。

という言葉を想起する。

 

そして、プライドについて一番衝撃的だった言葉は、作家の藤沢数希氏の以下の言葉である。

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 衝撃を受けた。

この言葉から、以下のようなメタ・メッセージ(言葉の中に隠れているであろう、言葉にならない想い)があると、感じられた。

 

「プライドというか、意地というか、体裁というか、そういうものを第一に置いていると、肝心なものを得ることができず(あるいは失ってしまい)、

結局そのまま人生が終わってしまうよ。

日本は恥の文化で、生きて恥をさらすよりも、死んで名を残すことが美徳という文化が未だにあったりするけど、

死ぬことほど悪いことはないよ。

美よりも実をとろうよ。」

 

と。

 

また、プライドというのは、 仏哲学者のエマニュエル・レヴィナスにおける「内存在性への我執」(interessement)ともいえるだろう。

それはともすると戦争、紛争を引き起こすものであり、だからこそ「内存在性への我執の超脱」(des-interressment)が、他者への架け橋となる、とレヴィナスはいう。

 

プライドは、それがあることによってまた、自分らしさであったり、自分が学問や仕事に向き合う上での指針や羅針盤となり得るであろうが、

人間関係においてあまりにプライドを持ち出すと、藤沢氏が言うように、少し生きづらくなるのではないか、と思われる。

 

作家の小田嶋隆氏が、、クリエイティヴ・ディレクターの岡康道氏との共著である、

「人生2割がちょうどいい。」

に、確か書いてあったが、

小田嶋氏は新卒で入ったAGFのメンバーとカラオケに行った際に、国歌斉唱をしたりし、またその際に、

「オレはお前らとこんなところでカラオケなんかしている場合なんかじゃないんだぞ。」

などと思っていたらしい。

その点について岡氏は満腔の同意を与え、また私も読んでいて「グッ」と来るものがあった。

 

以上のような想いは、表に出ると確実に嫌われる。

嫌われるが、こういう想いは共感できる。

決して表に出してはいけないし、言葉にも出してはいけない。

しかし、胸にひっそりとしまいこんで、それを(事が達成されるまで)誰にも話さない。か語らない。

そんな時は、しっかりと深く、深く根をはる時だ。

 

…いろいろと書いてきて、まとまりのない文となったが、要するにプライドは内面で温めるもので、外面に出すものではないのではないか、と思うのだ。

 

 

人生2割がちょうどいい

人生2割がちょうどいい

 

 

 

Life to liveか、Life to surviveか。

よく行くコンビニで、店長さん(正確にはオーナー)に接客されることが良くある。

 

私はコンビニでも常にクレジット払いなのだが、その店長さんに2回目に接客された時に、私がクレジットを出す前に、

 

「お支払いはクレジットで?」

 

と、聞かれた。

 

このホスピタリティーには感服した。

 

ため息すらついた。。

 

店長さんは僕を記憶していただけでなく、客が支払い手段を言い出す前に、先手を打って、客に伺っているその姿勢、そのホスピタリティー。

 

これはまず「Life to live」なアルバイト店員にはできないことだ。

 

 「Life to live」。

 

つまり「生きるための生活」(不定詞の形容詞的用法)といったスタイルでアルバイトをする店員には、そこまで「他者のために」(pour autrui)(仏哲学者、E.レヴィナスの鍵語)をすることはできない。

 

(だってめんどくさいもん。それしなくても給料は発生するし。言われたことやってればいいだけだし。楽だし。みたいな。)

 

 しかし、「Life to survive」、つまり「生き『残る』ための生活」をしている店長さんは、アルバイト店員と同じ思想を持つことはできない。

 

 競争に勝ち、生き残らなければ、明日の食料すら得られない、という様な一つの『飢餓感』『ハングリー精神』が、店長さんにはある(と思う)。

 

 生き残るためには、他者からの評価、更に踏み込んで、他者を「感動」させる必要が出てくる。

 

そうして評価、評判が高まり、リピーターが増えていき、永続的繁栄にいつかは到達する。

 

私はその店長さんには「感動」した。

 

上記したエピソードに加えることがある。

 

そのコンビニはサークルKで、そこで私はとり天を買ったのだが、その時もまた店長さんだった。

 

その店長さんはこう、私に言った。

 

「(商品を見て)…ちょっと温めましょうか?」

 

と。

 

私はその時、マニュアルの遥か外の、人と人との生成的コミュニケーションに立ち会った感があった。

 

つまり、店員から機械的マニュアル言語をかけられるのでなく、人間的生成コミュニケーション現場に居合わせた感があった。

 

どうしてそんな感情に包まれたのか。

 

それは「ちょっと」という副詞にある。

 

「ちょっと温める」というのは、私はついぞ聞いたことがない。

 

それゆえに、そこにまず意外性を感じた。

 

そして、「ちょっと」というのは、何を隠そう、私がとり天に抱いていた気持ちである。

 

正直、私は

 

「このとり天…ちょっと温めて欲しいかもな〜…」

 

と思って、レジに行ったのだから。

 

そして、店長さんは、「ちょっと温めましょうか?」とおっしゃった。

 

完全に心を読まれた感があった。

 

「ちょっと」という、この、如何にも日本的な曖昧な感情というか、大和言葉

 

 それをまさかコンビニのレジで思い知るとは。

 

 学びは多い。

 

松下幸之助は、

 

「学ぶ心さえあれば、万物すべてこれ我が師である。

(中略)

どんなに小さいことにでも、どんなに古いことにでも、自然の摂理、宇宙の理法が密かに脈づいているのである。

これらのすべてに学びたい。」

 

と言った。

 

これからも人々が見逃し、流していく様なevery little thingに注目して参りたい。

 

 

道をひらく

道をひらく

 

 

 

Every Best Single ?Complete?【リクエスト盤】

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太ってしまった。

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ここ一カ月ほど、ほぼ休みなく働いている。

 

朝、昼と満足に食事ができていないことが多いが、夜はがっつり食べちゃっている。(これがいけないのかな…?)

 

食べるものにも気を使い、かつや(カツ丼屋さん)や、サイゼリヤ、ガストに行く時は、必ずサラダを頼むようにしている。(…サイゼリアのサラダ…サウザンドレッシングかかりすぎですよね…笑)

 

 また、家に帰る道中、コンビニに寄って、フルーツ入りのヨーグルトを買って、家で食べてから寝る。(…女子か!)

 

そんな風なものだから、体調的にはすこぶる、いい。。(…すこぶる、って日本語、好きだ。夏目漱石も好んで使ってたみたいだし…)

 

しかし、明らかに身体が「重く」感じている。

 

 つまり、つまり、太った、ということだ。

 

 私の身長は173センチなのだが、体重は69キロほどある。

 

 去年の今頃は66くらいであり、大学時代は62キロくらいであった。

 

 しかし高校1年の頃は68キロあったので、いまの現状についてはあまり問題視していない。(…楽観的だな。。)

 

 しかしここ1年で太ったことは明らかなので、ジョカノには、

 

「ぶたさん(笑)」

 

「ブーブー?」

 

と、からかわれる始末である。

 

やれやれ。

 

まぁいいか。

 

とりあえず日々歩く歩数を増やして、気づいた時におなかを凹ませる意識改革から始めよう。

 

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「あぁ、嫌だ嫌だ…!」という感情との折り合いのつけ方についての一考察

昨日ほど会社を嫌だ、と思ったことはない。

なにがあったのか。

結論から、端的に言うと、上司によって新人と同期(その上その人は私の彼女である)がいる前で
公開処刑」を受けたからだ。

 これにはこたえた。

去年の今ころもやはり上司に「公開処刑」をうけていたが、今回は質的に辛さが
格段に上だ。

 きつい。

しかも、指摘されたことが、新人時代に指摘されるような初歩的なものであるうえ、
また自分の身体的な性質上直しにくいものであったため、つらかった。

 あー、いやだいやだいやだ、、、、、、、、。

こんなまでに自分がネガティブな感情に支配されてしまっている事実にも嫌気がさす。

自分史上もっと自分らしくない感がある。

また、上記のこともあるが、それ以外のところでそれなりにストレスを感じていたのだろうか、
歯軋りも最近あり、疲れもあまりなかなかとれないのだ。

………。

これが、『大人』か。

私の大好きなmoumoonの「dear my girl」にこんな歌詞があったことを思い出した。

『大人という 厳しさに 君は慣れたかな  泣いて つらくて さびしいことはあるかな」

これである。

まさにこの言葉が突き刺さる。

それにしても、ここ最近ほど「仕事を辞めたい」と思ったことはない。

今までもうっすらと思っていたが、「ああいうこと」をやられると、仕事に対するやる気が全く出てこなくなる。

また、上司、上長が部下に対して「偉そうに」、説教をするのも、やる気、士気が下がる。

様々な仕事関連の本を読んできて薄々とわかっていたが、実際に従業員の立場になると、それを痛いほど思い知らされた。

痛いほど。

自分自身が将来もし偉い立場になったとしたら、絶対に偉そうにしたくない、と、心に誓った。

そして、当然「公開処刑」なんかしたくはない。

やれやれ。


ともあれ、今回のことで、会社との関係性についてより深く考える機会を得た。

入社する前から思っていたが、やはりここは、というか会社は一生籍を置く場所ではないな、と感じた。

 このままだダメだ。

そう、直感的に思う。

会社に利用されるのでなく、会社を利用していくくらいの気概を持とう。

 あと何年ここにいるか。

それまでに自分自身にどんな付加価値をつけるか。

一番の安定は、いい会社にいることではなく、付加価値がつくことで業界を超えて求められる「自分」になることだと思うのだ。

佐山展生氏は、「『この野郎』と、何回思えるかが成長の鍵」と言っているし、

三島由紀夫も、「なにくそ、なにくそ!  これが男の子の世界の最高原理であり、英雄たるべき試練です。」と言っている。

 ブログを書き始める前は、本当にうなだれていたが、書きながら、やや回復してきた。

 また、関連して賢人2人(正確には3人)の言葉が思い出されてきた。

齋藤孝氏が「私塾のススメ」で語っていたこと。

たしかこんなような内容だった。

「私は落ち込んだ時、いつも司馬遷のことを想うんです。司馬遷は自分の友人が
冤罪にかけられて、彼をかばっただけで、とんでもない拷問に処せられたんです。
その歴史的事実を考えると、自分が落ち込んでたことがいかにちっぽけか、とおもえてきて、
また、「こんなことで落ち込んでたら、司馬遷に申し訳ないな。」と思うんです。

この一文を読んだとき、震えた。

また、大前研一氏が、テレ東の「ガラポン2000」で語っていたこと。

「私は都知事選に出て、青島幸男にぼろ負けしました。それでみんなからバカだバカだと言われ、本当にあなたはダメですね、といわれた。いい気持ちだよ。」

この思考の転換にも敬服せざるをえないほど震えるものがあった。


され、このブログで不満を色々書いてきたが、やはり自分自身を救ってくれるのは、自分が信じた人たちの言葉や経験だな、と振り返って思う。

ゲーテも言っていたが、

「ひとは、自分が愛するものからのみ学び得る。」

ということだ。

師は、現れるものではない。

師は、自分から見つけに行くものだ。

学びは能動的であるときのみ、有効なのではないだろうか。