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ゲージツとは何か? 〜芸術から貨幣、そして他者論(?)へ〜

人間にとって芸術とは何か。

芸術とは表現者が 

「これは(が)芸術だ!」

というものではない。決してそうではないと思う。

見る側、受け手側が

「これは芸術だ…!」

と思うことがすべてだ。

芸術は人間を内的に豊か幸福にするものでろうし、そうでなければならない。

であるからすべては受け手にかかっている。

 

 先日、踏切の横に提灯をぶら下げて、だぼだぼの黒い服を着て、

首から「芸術家」という看板をぶら下げた人がいた。 そうすることによって彼は僕らを豊か幸福にしただろうか。 少なくとも彼の気概というものにはある種の敬服をいだく。

それにしても豊かなる時代だな、と思う。

彼はきっと「発掘」されたくてされたくてしょうがないのだろう。

そのような人がいることは現代は大変豊かな証拠であり、それは喜ぶべきである。

願望としては分かる。

「みんな見てくれ!僕私のよさを分かってくれぇ~!」

誰だって少しは思うところのはずだ。

しかしそうなるためにはまずは自分から「彼ら」の真価を発掘していく進取の精神がなければならない。

『発掘される人になりたい。』『発掘する人にならなければならない。』

受動性は常に理想郷にあり、能動性は常に内沸的で他者変革的である。

この矛盾的性質が人間の人間性を基礎付けるものの一つではないだろうか。

子供は発掘されたがり、大人は発掘しなければならない使命がある。故に子供(な人)は未だ人間ではあらず。

世は、欲しがることによって失い、与えることによって得るものがある。むしろそれの方が多いかもしれない。特にかたちのない、目には決して見えないもの。愛であったり、信頼であったり。

ひょっとしたら、貨幣もそうかもしれない。

貨幣とは常に他者のために使われる、いや流れるものである。貨幣を通じて獲得するものは物ばかりでなく、幸福感であったり、充実感であったり、信頼である。そしてまたなんといっても「間」を思い知るところにある。そうして貨幣は誕生した。

芸術というものの悪い側面のみ見たら、芸術は殲滅させなければならないけど、やっぱりいい面も見るようにしなけれればなるまい。

芸術は、人間内の寛容の精神を育む役割があるのではないだろうか。

芸術とは、何も美術館に閉じ込められているものばかりでなく、他者に「届く」ものすべてだと私には思えてならない。