クリエイター論、もしくは人間的なものについての一考察


上司が本当に聞きたいと思っている5つのフレーズ | ライフハッカー[日本版]

 

話題といささかズレるが。

橋本治が「クリエイターとは?」という質問を受けた際に、

「現場に入って一番最初に足元のゴミを拾う人。」

と答えた、という逸話を思い出した。


この話は、私が個人的に大変尊敬する思想家の内田樹氏がTwitterで書いていたことで、

前後の脈絡やその論拠は不明である。

おそらくこの論拠は2つある。

1つ目として考えられるのは、カオス(混沌)な状態を一旦コスモス(整然)にすることで、ゼロからすべてを見出すことができるようになるから、ということなのかもしれない。

クリエイターとは、常人の思いもつかないこと、また視野視座を提供する人であると定義すると、

そもそもの環境において「変わった」もの、或いはドラスティックな場である必要があると思う。

カオスな環境だけではダメで、コスモスな環境だけでもダメなのである。

クリエイターはゆえに、まず環境すらを変えること、いや、変え続けていくことが、クリエイターのクリエイター性を担保するものではないかと思う。

つまり、カオスをコスモスに、コスモスをカオスにすること、し続けること。

環境ばかりか、自身の頭の中も、カオス的環境とコスモス的環境を幾億幾兆と行き来することによって、全く新しき発想が生まれるのではないかと思う。

故に、まず現場において「その環境を変える!」という意気込みで、「ゴミを拾う」という行動が、クリエイターとしての「資格」と言えるのかもしれない。


2つ目として、どんなに発想力創造力が豊かなクリエイターであったとしても、人間的な思いやりがなければダメ、ということを意味しているのかもしれない。

ここで「ゴミを拾う」というのは、言うなればクリエイターの仕事ではない。

しかし、ゴミを拾うという「掃除」は、必ず誰かがやらなればならない仕事である。

それをクリエイターがやる、というのは、掃除すべき人を代理して、「わざわざ」「進んで」する、ということを意味する。

これは一つの思いやり、人間的な優しさの現れである。

つまり、如何にクリエイターとして一流であったとしても、「他者のために」ができなければ(それがどんなにささいなことであったとしても)、クリエイターとしては失格である、と、橋本治は言いたかったのではあるまいか。