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「。」の意味 —ひとつの責任論。あるいは美学的な、風情的なもの—

不意に早朝に目覚めてしまったので、Blogを書く。

最近、といっても2、3年前から引っかかっていることがある。

TwitterFacebook、LINE、あるいはネットの掲示板にしばしば見られることだが、

文末に「。」がない文章

が多い。

いや、正確にいうと、文末に「。」を打たない人が多い、ということかもしれない。

これは、あまりよくない傾向な気がする。

「。」についての意味意義など考えたり教えられたりなんてことはほとんどないが、

これは一つの責任論な気がする。

「。」というのは、「自分の書いた文章(主張)はここまでです。」

という、一つの主張であり、言い換えると、

「どっからでもかかってきなさい!」

という、決然とした意思表示であり、一人の人間として自身の言動に関してはすべて責任をとりますよ、という意思表示だと私は考えている。

つまり、自身の主張に関し、いかなる反論も受け付ける構えというものが、「。」には含有されていると考えている。

その考えから言わせていただくと、

「。」のない文章というのは、ひとつの「逃げ口」を作っているもののように思う。

「。」のない文章からは、

「いやいや、この主張はまだ完結してないから、そんな反論をされてもなぁ笑」

といったなぁなぁな雰囲気が文体から感じられる。

いや、正確に言うと、「。」がないだけで、どんな文体のものもひとつの責任逃れ的なものを感じる。

また、これとはまた別な視点から見ると、「。」のない文章というのはどうも投げやりな、テキトー(「適当」ではなく)な、他者への配慮が皆無のような、いってみれば「攻撃」あるいは「ポイ捨て」的な主張に感じられる。

つまり、「。」のない文章というのはひとつの「暴力」のようにも思うのだ。

この視点から考えると、「。」のない文章が広まっていることは、日本の将来にとっても、あるいは日本人、そしてなんといっても日本語にとって危ういことではないかと考えている。

ただ単に考え過ぎかもしれないが、どうも「。」のない文章というものに、ここ数年、えもいわれぬ(…なんかこの日本語、好きだな…)違和感を感じたから、このブログで書かせて頂いた。

 

…更に別な視点からいうと、「。」のない文章というのは、尻尾のない海老フライのようなものだと思う。

著名なコピーライターである仲畑貴志氏は、かつてキャッチコピーについて(確か)こう語った。

コピーは何よりも文末が大事なんですよ。どんなに良いこと言っていても、最後にどう終わるか、ということが大事。

良いこと言ってても、最後にぴしっとしめないと、それは尻尾のない海老フライみたいなもんだよ。

海老フライに尻尾なかったらさ、一見イヌの糞かと思うじゃん。

だから、コピーは文末が特に大事なんだよ。 

 俳句や短歌で「体言止め」という手法があるが、これも終わりを、というか有終の美、あるいは風情をそこに表現するかのようなものである。それは広告界でも同じということなのだろう。

そしてそれは、我々が普段書く文章にも言えることだと思う。

もちろん常々清く正しく美しくなどいられるはずもないかもしれない。

しかし「。」を付けることは、ひとつの責任論、自分はここにいます!(me voici!)というひとつの存在証明である故に、「。」には意味意義がある、と私は考えている。