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飲み会の「意味」 ー飲み会は人生の真髄、或いは縮図であるー

昨日はバイト先の飲み会があった。

僕を含めて3人が卒業するので、その追いコンみたいなものだ。

ただ私は院生で、かつプラス2年ほど遅れてしまっているので、他の同僚や後輩たちとは最大5コほども離れている。

ともすれば微妙に浮いた存在となりがちで、以下のような状況もあり得る。

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(引用:谷口奈津子『ミュータントせつこ』より)
 
このような状況は僕としても痛いほど味わ…っては、特にいない。
「とにかく同僚というだけであれば、特にきにすることないんじゃないの?」
というテンションである。
あとそれに飲み会だとやはり周囲が酩酊状態となり、先輩である自分に対してタメ口をきいてきたりすることもしばしばなため、そのような状況が「年の差」を意識する機会を免じてくれる感がある。
(…確かに酩酊状態とはいえ、ため口をきいてくるのはどうなの、という問題もあるかもしれないが、私はため口それ自体に関してそれほど問題にしてない。同僚という関係上。)
 
さて、飲み会といえば、何といってもやはり、①あらゆることを思いつきで赤裸々にトークができる現場であるということだ。
言い換えれば、全員がひな壇芸人状態であり、誰がいかに盛り上がるトークをできるとか、あるいはツッコミができるとかという現場である。
そして、そういう現場であると同時に、お酒が人の本性(本章)を表すものである故に、②そのひとの人間の「性」をかいま垣間見れる現場でもある。
 
①についてから説明していくと、飲み会というのは今までの自身のストックがいかに発揮されるか、という現場であるということだ。いってみれば研究発表、プレゼンテーション、アウトプットの場である。
アウトプット、という点に関しては、一対一のコミュニケーション全般について言えることかもしれないが、飲み会という、「なんでもありの、楽しい駅」というような、多人数で、誰が何を話しだし、またどういう話の流れで何を語るか、という、空気を読んだり、或いは時にぶちこわしたりなどの、現場把握能力を磨き上げることができる場であると同時に、それはまた勇気や胆力を鍛える(或いは発揮する)現場でもある。
こういうような現場は、特に象牙の塔でこもって勉強している学生や、あるいは他者とのコミュニケーションに悩んでいるひとほど、顔を出すべきだと、私は思っている。
 
「いや、、、自分酒飲めないんでえ・・・」
 
ということは正直全く問題ではない。
飲めなくても、その現場に参加し、周囲の意見を聞いたり、あるいは意見したりするその状況が、なによりも「最高」であるとわたしは思うのだ。
人間が車座になって杯(食事)をかわすこと。
これは原初の人類が共同体立ち上げの儀式として初めて行ったものである。
つまり、飲み会をはじめとした食事会というものは、自分自身が人間である、ということを思い出す、あるいは楽しむところに、その真髄はあるのではないかと思う。
 
②については、やはり人はお酒が入ると頭はぼぉ〜っとし、身体は火照りだし、いろいろと開放的な状態となる。
そして、多くの場合、自分自身の現状に対する不満、それは特に人間関係に関しての不満である(アルフレッド・アドラーの「すべての悩みは人間関係についての悩みである」ということばを引用するまでもなく、それは飲み会という現場で思い知ることだ)。
その不満を語る人が、誰にどういった不満を抱いているのか、を知るということは、言い換えれば不満のネタにされているその人とうまくやっていくことを知ることができるということだ。そして不満を語っている張本人の「性」も知ることができる。
これは一見あまり重要な情報とは思えないかもしれない。
 
「いや、そんなの自分の仕事と関係ないし、ましてや給料が増えるネタでもないじゃん。」
 
と。
しかし、東芝社長、IHI社長、そして経団連会長を歴任した敏腕経営者であった土光敏夫氏は、以下のようなことを語っている。
 
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 いかなる文脈で土光氏がこのように語ったのかは計り知れぬが、実績を残した氏がこういう言葉を残しているということは、やはりどんなに些細な人間関係でも、そこには何かしらの学び、そして自分自身の仕事に活かせる面があるのではないかと思う。
つまり、どんな人間関係があったとしても、それは自分自身にとって無関係ではないのだ。
そしてそれは自分を取り巻く世界の縮図であるともいえるのではいか。
 
以上の2点を思い知れるというところから、私は飲み会には「意味」がある、と思うのだ。