お墓参りとは何か? 〜ひとつの倫理学的考察〜

 本日は母方の祖父のお墓参りに行ってきた。
 …と、そんな冒頭から書き始めてふと思ったのだが、最近のこのBlogは、完全に日記と化しつつある…(個人的思想記にするつもりが…)
 ただ、曹洞宗の開祖、道元禅師は
「日常がそれ即修行(修業)」とも(確か)言っているので、こんな日常でも何か驚きや新発見、または罵倒されたりして自身の価値観が打ち砕かれる瞬間があるならば、その日常には「意味」がある、と、私は信じている。

 前置きが長くなった。
 さて、私は今日お墓参りに行ってきた訳だが、そもそもなぜ我々はお墓参りに行かなければならないのか?

「その人はこの世にいなくて、会って食事をして会話をすることはできない。ゆえにお墓参りなんて無駄じゃね?」

 と、思う人も少なくはないのではないか。
 私自身もお墓参りについては確固とした意義を見出すことは今までできなかった。
 今、ふとお墓参りについて考えてみたら、その意義は『他者を想う』という、ひとつの倫理学的なる意味があるからではないだろうか。
 お墓参りをするということは、死者の眠る場所へゆく、ということである。
 死者。
 死者とは、他者の中でも最も自己と他なる者である。
 他者とはコミュニケート可能だが、死者とは完全にコミュニケート不可能である。
 ゆえに生き残った(或いは今日という日もまた生きてゆくことを決めた)我々は、そんな完全他者である死者を『想像』する必要がある。
 想像。あるいは他者の気持ち、立場を思いやること───
 これは、人間が人間的であるために、必須の資質である(と思う)。
 人間が獣的である場合では、ホッブズ的にいえば「万人が万人にとって狼である」状況であり、それは現代的にいえば常に核戦争の脅威、ナイフを惜しげも無く振り回す通り魔の恐怖に怯え続ける人生、世界となる。
 ゆえに、人間にとって想像すること、他者を想うこと、それは必須の資質であると私は信じている。
 そのようにふと考えていったら、お墓参りの意味意義も、この歳になってようやく分かった気がしたのだ。