「押すなよ、絶対押すなよ!」とは何か? ──ひとつの言語学的考察

 昨日、「僕らの業界やったらそんなんあり得へんよ!」という決まり文句について考察したが、関連して「押すなよ、絶対に押すなよ!」という台詞についても考察したく思えてきた。

「押すなよ、絶対押すなよ!」とは、ダチョウ倶楽部の上島竜平氏の名言である。

 この名言は確か熱湯風呂を現前にして発せられる言葉である。

    上島竜兵氏に「押すなよ、絶対押すなよ!」と言われた場合、それを語義通りに氏を押さない、という選択肢を取ると、氏に「なんで押さないんだよ!」と罵倒される。

 なぜか。

 「押すなよ、絶対押すなよ!」には、どのような意味が含有されているのだろうか。

 「そんなの、ただの演出でしょ」

 と、一言で片付けることもできようが、私はこの決まり文句にはひとつの言語学的なものが要素として含有されているものと思われる。

 例えば、駅のホームを友人と並んで歩いていて、友人が線路側を歩いていたとする。

 そのとき電車が入ってきて、友人が真顔で震えながら「押すなよ、絶対に押すなよ」と、こちらに言ってきた場合、それは「絶対に押すなよ」という意味であり、私どもは決して彼を線路側に押してはいけない。

 しかし、状況変わって、例えば目の前にプールがあって、周囲にキャピキャピなガールたちがいたとする。

 ここで友人がプールの前に立ち、にやにやしつつ、ガールたちにわざとらしく聞こえるように「押すなよ、絶対押すなよ!」と言ってきた場合、私どもは思いっきり友人をプールに突き落とさなければならない。

 そう考えると、「押すなよ、絶対押すなよ!」とは常に文脈依存的フレーズであり、状況を加味して解釈しなければならない。

 いや、ひょっとしたら、「押すなよ、絶対押すなよ!」ばかりか、すべての決まり文句、或いは言葉の本質とは、それ独立した意味を有することなどなく、言葉を使う人、使うその状況、解釈する人に、いつだって「意味」が任されるものなのではあるまいか。

 つまり、言葉とは、いや言葉を使うということは、言葉を辞書的意味という呪縛から解放し、そのときその瞬間、その状況、その人「だけの」意味が、使われる度に生まれ変わるものなのではないだろうか。