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「○○らしくないよ」といった台詞についての一考察

 例えばの話であるが、自分自身が何かについて悩んでいたとする。
 そして、そのとこについて友人と話し、弱音を吐いたりした際に、

「○○(自分自身の名前)らしくないよ。気持ち切り替えよっ!」

と言われたりすることが、少なからずあると思う(私は一度もないが…)。
 そのことについてふと思ったのだが、「○○らしくないぞ」という叱咤激励は、他のどんなそれよりも「尊い」ものではないか。
 いや、確かに他にもベターな叱咤激励はあるかと思う。
 例えば歴史に名を残した人物や、身近な人や、或いはその友だち自身の失敗談を話し、そこから如何に立ち直ったか、というエピソードを交えて話すなどもベターなものかもしれない。
 しかし私は

「そんなの、○○らしくないぞ」

や、或いは

「いつもの○○とは違う気がするけど、どうしたの?」

 といった、その、あくまで本人に注視し、その本人のスタンスに立ったような形での叱咤激励というものは、これ最も人間的なるものではないだろうかと思う。
 なぜなら、この叱咤激励には絶対的なまでの「愛」がある。
 友人に上のような叱咤激励を言われた場合、それが本当に問題を解決させるものとなるかは正直のところ誰にも分からないことだが、少なくともこの叱咤激励には、「私はあなたのことを、自分自身のことのように思っているよ」というメタレベルのメッセージが存在してある。
 そもそも、「○○らしくないぞ」などという言葉は、その「○○」という人物についてよく分かってないと決して言えない言葉だ。
 確かに、その言葉を言うことだけはもちろんできる(当たり前だが)。
 ただ、この言葉はかなりの覚悟、踏み込みがないと、本当の意味で言うことなど決してできない言葉だ。
 だからこそ価値が、意味があるといえる。
 しかし、視点を変えて、自分自身が「○○らしくないよ」などと友人に言われた場合、これほど余計なまでのお節介などない、と思うかもしれない。

「…は? 私のことを知ったつもりか…? あんたに何がわかる!?」
 
 などと、つい言葉に出してしまいかねない。
 だからこそ、先に触れたように、「○○らしくないぞ」というセリフを言うには、かなりの覚悟や踏み込み、そして自己を廃し、他者のために生きることとしての「愛」がないといけない。
 いや、ひょっとしたら愛というよりも、信頼関係と言った方が、もしかしたら正しいのかもしれない。
 …正直、書いている私自身もよく分からなくなってきた。
 今日はここで筆を止める。
 それにしても、分からないことだらけである。
 いやしかし、だからこそ、人間として生きる『甲斐』があるのではないか、と、私は思って止まないのだ。