子供たちの目の輝き、笑顔、動作、つまりは生命の歓喜についての第一考察 ──人間と人間の「間」にあるものとは何か?

 教え子に小学3年生がいる。

 その子は勉強を基本的に楽しそうにやるが、私に質問する際、目を見開き、うるうるとさせ、やたらうごめきながら、落ち着きのない調子となる。

 わたしはその子のそのような様子を見るに付け、

「これだ、これこそがエラン・ヴィタールではあるまいか・・・!」*1

 と思わずにはいられない。

 つまりそのこのその様子(行動)は、人間(自己)と人間(他者)との回路を創出する、あまりにも人間的な行動ではないか、と私には思われたからだ。

 きっと私だけではないと思うが、人にうるうるとした目で見つめられ、身振り手振りを交えながら、全身全霊で質問(懇請、希求)された際、普通は「無関心でいることができない」(non-indifferance)*2のではあるまいか。

 その子は「おそらくこうすれば先生をひきつけることができるだろう、しめしめ」と思ってやっていないだろうが、わたしはこの子の一連の行動は、人間を人間たらしめる基本的、根源的営為であると断言したい。

 人間(自己)と人間(他者)との間には、そもそものはじめから「何もない」。

 しかし、人間は人間に対して「無関心でいることができない」。

 ゆえに、人間は人間に対して懇請、希求、或いは直截的な言葉でいうとするならば、欲望(desir)することで、世界が、人間的世界がその時初めて誕生する。

 そしてそれはまぎれもない幸福であり、全ての生命における歓喜の始まりだと思う。

 

*1:仏哲学者、H・ベルクソン(1859~1941)の用語。「生の躍動」と訳される。哲学界での本来的意味は忘却した。大変申し訳ない。

*2:仏哲学者、E・レヴィナス(1906~1995)の用語。レヴィナスの他者論において欠かすことのできない用語。