「牢屋のまま歩く」とは何か

 太宰治が好きだ。
 と、いいつつ、太宰作品は殆ど読んだことない。
 ただ、太宰の言葉がどうも「くる」ものが大いにあり、以前から自分の中に太宰を住まわしている。
 特に以下の言葉が好きだ。
鎖につながれたら、鎖のまま歩く。 十字架に張りつけられたら、十字架のまま歩く。 牢屋に入れられたら、牢屋を破らず、牢屋のまま歩く【一日の労苦】
 ここでいう「歩く」とは何か?
 おそらく、いかなる困難苦難な状況においても、それをしかりと受け止め、寧ろ愛する勢いでそれ丸ごと「生きる」ことではないだろうか。
 つまり、「歩く」は「生きる(生きていく)」ことと同義ではないかと思われる。
 ここで太宰が「歩く」と書いたのは、歩くという行為が人間の人間性を担保するものであり、また頭だけでなく身体をも用いて「汗をかいて」生きることが人間だ、と言いたかったがゆえに、ここで「歩く」と言いたかったのではあるまいか。

 ところで、「牢屋のまま歩」いた歴史上の人物で思い出すのは吉田松陰である。
 彼は密航を企てたがゆえに幕府に捕まり、野山の獄という、入ったら生きて出ては来られない牢獄に入れられたのだが、そこで他の囚人や刑務官へ孟子を講義した。
 野山の獄にはいっても絶望することなく、そこで自分自身ができる最大限のことを彼はしたのだ。
 つまり、彼はまさに「牢屋のまま歩」いた。
 結果、彼を始め、他の囚人も釈放されるという、正に奇跡が起きる。
 これは牢獄に絶望せず、牢獄のまま歩いたからこそ、このような奇跡が舞い降りたのは間違いない。
 こう考えると、自分自身がいかなる困難苦難な状況においても、それを寧ろチャンス到来と思い、そこでベストを尽くすこと、こうすることによって「道が開ける」のではないか、と思われた。