両想いの不可能性についての一考察

 ずっと昔から、抱いている違和感がある。
 
「両想いって、ありえないんじゃないか?」
 
 と。
 
 片想いなら分かる。
 
 それはそれは、もうハッキリと「存在」していることが認識できる。
 
 もちろんそれは形なきものであるが、「相手」のことを想って悶えたり、或いは胸や胃がちくちく傷んだりする度に、「片想い」という無形的存在は認知できる。
 
 それの存在は、かれこれ幾度となく「思い知っ」てきたわけだが、「両想い」というものの存在ばかりは、どうもこの歳(20代半ば)になってもよく分からないし、未だに「ありえない」と思われてならない。
 
 私にはお付き合いをしている女性がいて、彼女に、
 
「自分は未だに◯◯(←女性の名前)に片想いしている感がある。」
 
 というと、彼女は、
 
「いや、両想いだってば!! 何度も言わせないで!!(怒) そんなに私が信頼できないの??」
 
 といい、私は非常に怒られる。
 
 確かにそう言われる(本気で怒ってくれる)ということで、「両想い」というものの存在がうっすらと分かるような気もしないわけでもないが、それでも、それでもだ。私にはどうも分からない。
 
 自分が、「彼女のことを好き」なのはしっかりと分かっている。
 
 それは例えば仕事中ふとした時に彼女と楽しく一緒にいたりすることを想像したり、夢に見たり、或いは「会おうよ」と誘ったときに「仕事忙しいからムリー」と言われ、素直に胃がちくっと痛くなったりすることから、この想い、つまり「片想い」は確実に「存在」する。
 
 しかし、彼女が私のことを想っているかどうかは、本当のところ100パーセント知ることができないのではないか。
 
 彼女から「大好き」とか「愛してる」と言われたところで、それはきれいな嘘かもしれないし、また「一緒にいたい」とか「アルテマ(←このblogの筆者)じゃないとダメなの」と言われたところで、本当のところ、彼女にとって、隣にいるのは誰でもいいかもしれない。
 
 …あ、今上記したことはいささか疑心暗鬼すぎる想像かもしれないが、両想いの確証、愛の確証というものは本当のところ不可能ではないか、というのは昔から変わらないところである。
 
 ただそれは「人を信用できない」というのとはちょっと違う気がするのだ。
 
 そもそも、信用あるいは信頼というのも、片務的で、非対称的なものであるように思う。
 
 確かに彼女は身も心も、或いは彼女自身の時間やお金も自分に「掛けて」くれているかもしれない。
 
 しかしその点全てを考慮したところで、「だから両想いだね」とはならないと思う。
 
 当たり前なことをはっきり言うと、他者は自己ではない。
 
 ゆえに、他者の気持ちを知ることは不可能である(それに人は「嘘をつく」という能力があるから。この点が更に厄介なところであるが、しかし同時に人間の『面白い』ところである)。
 
 よって、両想いというのは不可能である。
 
 …じゃあ、実際に夫婦の人たちやカップルは両想いではないのか?
 
 私は、「それはお互いがお互いに『片想い』をしているということだ。」と言いたい。
 
「・・・え、それ両想いじゃね?」
 
 という声が聞こえてきそうだが、そもそも「想い」というものは外形化不可能であり、数値化不可能であり、全き質的存在である。
 
 ゆえに、それが「両立」することはありえない。
 
 だって見えもしないし、数字で表せないから。
 
 例えば観覧車の中で二人きりでいて、一方がもう一方を「すごい好き」であったとしても、もう一方は一方を「そこそこ好き」ぐらいに思っていてもおかしくない(もう一方は高所恐怖症で、「好き」の気持ちが目減りしている可能性が十分に考慮できる)。
 
 よって、両想いは「存在しない」。
 
 …じゃあどうするか?
 
 相手(配偶者やお付き合いをしている相手)が、私をどれくらい好きかとか、私にどれくらい時間とお金を掛けているか、などということはあまり関係がない。
 
 まず、他の誰でもない『この私』(仏哲学者、E・レヴィナスの用語。 "moi"が原語。)が、 好きな人を想い続ける、思い遣り続けることが、それ精一杯の「片想い」の証明になるのではないかと思う。
 
 「私のことどれくらい好き?」などというストックフレーズがこの世には存在するが、このフレーズを語るのであれば、その人が仮に一見立派な大人であっても「子供」、「幼児」である(そう、レヴィナスは言っているのである)。
 
 そうではなくて、「あなたがどれくらい私のことを好きか、本当のところは分からないけれど、私は、『この私』は、あなたのことが好きだ。」と、いうことが、本当の(無償の、見返りを求めない)愛であり、それはまた、我々人類の始祖が、この世界を始めたときの「原初の一撃」であったのではないだろうか。