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胆力。この、人生で最も大切なものについての一考察

 私はよく「公開処刑」を受ける。

 いかなる「処刑」かというと、それはオフィスにいる社員さん全員の前で課長に結構な声色で怒られる(叱られる)ことだ。

 普通、そのような「処刑」は誰でも受けたくないだろうし、私ももちろんあまり受けたくない。

 しかし、かれこれ何度も怒られるうちに、全然くよくよしなくなった。

 以前は怒られると非常にしょげてしまっていたが、最近になると完全に耐性がついてきた感がして、仮に全人類の前で怒られたとしても全然全く恥ずかしくない、と思える自信がある。

 奇妙な自信だが、なんだかそんな感じなのだ。

 確かに「怒られる」ということは上司或いは顧客に迷惑をかけているということなので、同じような過ちは2度と繰り返さないように、つまり怒られないように仕事をするべきなのは間違いない。

 しかし、いざ「怒られる」という時に、こちらがあまりにも深刻になりすぎることは、正直申し上げてあまり良くないのではないか、と思う。

 怒られることを過大視しすぎたり、或いはビビリすぎて、また或いは怒られたことについて『いっぱしの』、『ちっぽけな』プライドが傷付いたりして出社拒否となって親が会社に怒鳴り込んだり、或いはやっと入社したのに、ちょっと怒られただけで辞めてしまって、結果的に就活してた期間よりも会社にいた期間の方が短い、という例が少なくない、と聞く。

 思うのだが、多くの人は「上からの査定」について過敏になりすぎているのではあるまいか。

 そのような心持ちであるがゆえに、ちょっと怒られただけですぐめげたり、会社をそそくさと去るということをしてしまうのではないだろうか。

 つまり、現代の人は。例えば明治の人と比して「おとうふメンタル」の人の割合がヒジョーーーーに、多いのではないか、と思う。

 「は、人のこと言えんのかお前?」

 という声が聞こえてきそうだが、私の場合は怒られれば怒られるほどテンションが上がるタイプの人間である。

 「へ、変態かお前は。」

 という声が聞こえてきそうだが、私もこれについてはよく分からず、最近こうなったのだ。

 今まで思想的に、

 「人生で重要なことは転ばないことではなくて、転ぶ度に起き上がることだ。」

という一種の確信を、大学・大学院時代のトータル7年間の読書経験(特にこの知見は城山三郎の文学に因るところがある)から得て、それをずっと温めていたのだが、このところ最近、それを身を以って「思い知りつつ」ある感がある。

 つまり、人生で大切なことは、金銭の多寡でもなく、技術の多寡でもなく、知識の多寡でもない。

 胆力があるかどうか、ではないだろうか。

 この一種の確信を得たので、これからも社会の荒波の中を、『この私』の胆力で以って過ごしていくのである。