E.レヴィナス小論

レヴィナス(20世紀の仏哲学者。他者論が主)は過剰なマゾヒストである。


レヴィナスの語る他者との非対称性を実現させるためには、確かに自分が過剰有責であることを思い知ることが肝要であるが、それは一方では他者が傲慢不遜であることを望むことのような気がする。

 

レヴィナスはドMであったということか…!

 

いや、これは言い過ぎかもしれないが、過剰謙遜ではあろう。


なぜレヴィナスは「私は街角でばったり出会った人に対して有責です。」と語ったのか。

 

またこの有責感は栄光という。

 

有責感は罪悪感や引け目、疚しさともいえ、それは本来人間にとってマイナスなことであろうが、それは栄光という。

 

なるほど、レヴィナスは過剰ポジティブとも言えるかもしれない。


親鸞は「自分が悪人であると思えば思うほど極楽浄土にいける」と言うが、これはレヴィナスの疚しさ、過剰有責感と繋がる点である。

 

しかし自分を悪人と思うこと、疚しさを感じるということは居心地、生き心地が決して良くはない。

 

それが栄光となろうが、極楽浄土にいけようが、普通は耐えられないだろう。


これは「渇望を感じろ」ということなのだろうか、ひょっとしたら。欲望ではなく、渇望。余計なものを求めるのではなく、人間が生きてゆくためにはなくてはならないものを求める。

 

他者に疚しさを覚えること、それはまるで砂漠の中で必死の思いでオアシスを探し求めるような、当然湧き上がるものか。

 

ひょっとすると、レヴィナスは生物学的唯一性ばかりでなく、社会的唯一性をも獲得せよと言っている(と思うんだ)が、そうするとレヴィナス社会主義者ということになる。

 

いや、他者主義者か。

 

社会=他者、とは言えないところがあるから。