野田愛実『全力ガール』における対話的歌詞についての一考察

 

車に乗ってラジオを聴いていたら、野田愛実の「全力ガール」が流れてきた。

 

この子はZIP-FM(東海3県?で流れてるFM)出身の現役JDガールだ。

 

私も去年から注目しているのだが、彼女は才能がある。明らかにある、と感じる。

 

例えば私の好きな「全力ガール」の歌詞に、こうある。

 

今日会えないなら 明日にも 会うべきでしょ? そうでしょう?

 

いいわ。

 

このワンフレーズだけでも、いいと思った理由

が2つもみつかるのだ。

 

まず、「会うべきでしょ」の「べき」がいい。

 

男と女が会う、という場合は、必ずどちらかか、あるいは双方とも「会いたい」という切なさがあり、それが彼女と彼氏を繋ぐものであるのは間違いないのだが(…くさい言い回しだな…)

そういった願望ではなく、「べき」という、「義務」が先行している。

 

「べき」というのは、言うなれば社会的なものだ。

社会的ということは、それを為すことは、社会的にいって意味がある、ということだ。

ということは、彼女と彼氏が会うということは、彼ら2人にとってだけでなく、社会的にも、世の中、世間、ましてや世界的にも意味があり、かつ有益なことだ、ということを意味している。

 

「…は?」

 

と、いう声が聞こえてきそうだが、考えてみてほしい。

彼ら2人が会うことによって、見事幸せになれば、彼ら2人だけではなく、彼らの親兄弟にとっても嬉しいことだ。

そして、彼ら2人がいつしか子どもを授かれば、子どもにとってももちろん、親兄弟にとっても嬉しいことは間違いない。

また、子どもができたことによって、子ども自身も、彼ら2人自身の人生の幅も広がる。

人生の幅も広がることによって出会った人やモノ、サービスによって、彼ら2人はもちろん、彼ら2人に出会った人も嬉しいことは間違いない。

 

こういった真理を野田愛実は知っていたに違いない。

だからこそ、野田愛実は「会うべき」と書いたのだ。

そして、その「べき」にこそ、人生の深みがにじみ出て、この「全力ガール」の味を引き立たせているのだ。

 

 

これがまず一点。

 

 

もう1つは、語尾だ。

「会うべきでしょ? そうでしょう?」

と、「問い」の形をとっている。

学校の授業を聞いているだけでは、よほど面白くない限り、眠くなり、退屈だ。

だから、いい授業というのは、得てして生徒を巻き込み、対話的に進めていくものだ。

現状、教育業界において、集団授業よりも個別指導の勢力が多数派になっているのも、

この「対話」が重要だということの証しであろう。

 

一方向的な講義というものは、ともすれば生徒にとって、

「この講義、俺がいなくてもいいよな…」

と、唯一性を感じなくなる可能性がある。

 

しかし、対話の場合は、始まりの質問は同じだったとしても、その後の展開はそこにいる参加者次第だ。

つまり、その時、その場、その瞬間だけにしか生成しないものを作り出さんとするものが、「対話」なのだ。

また、「対話」があったからこそ、今まで人類は進化してこれたことも間違いはない。

 

その「対話」の重要性を知っていたからこそ、彼女は「会うべきでしょ? そうでしょう?」と唄えるのだ。

 

 

野田愛実、只者ではない。

 

野田愛実はもしかしたらここまで意識して歌ってないのかもしれない。

もしそうだとしたら、才能があることは間違いない。

意識しているとしたら、相当ご本人が努力、工夫をされていることは間違いない。

 

才能。努力工夫。

 

努力工夫次第では、才能に勝てるのかもしれない。

 

 

(表記が「野田愛美」となってたので、6/23、修正しました。申し訳ありませんでした。。。)