首を横に振らずにいられない現象についての一考察

 

 ある種の曲を聴くと、自然に、それはそれは自然に、静かに首を横に振ってしまうことがあることって、ないだろうか。

 

 僕は、moumoonの『pride』という曲と、『philia』という曲を聴くと、そうしてしまう。

 

Philia

Philia

 

 なぜ、首を横に振ってしまうのか、自分でもよくはわからない。

 

 これらの曲は僕にとって本当にあまりにもあまりにも、あまりにも言葉にならないくらい大事で思い出深い曲であって、自分を『ここ』まで連れて来てくれた、大きく、深く、そして強く、僕に影響を与えている曲だ。そしてもちろん、これらの曲は大好きだ。

 

 だから、これらの曲を聴くとき、首を縦に振る───その曲の『存在』と自分の『存在』を認めるように───のなら分かるのだが、自分が何故首を横に降るのかがわからない。

 

 自己意識。

 

 「自分の今の行動は、いったいどんな意味があるのか?」

 

 自己客観視、自己省察の始まり。これが自己意識だが、僕にとってこの行動はまるで意味不明だ。

 

 だから、考えてみるとしよう。

 

 これらの曲を聴くとき、あまりにも自分を感動させるため、また今までのこれらの曲とともに過ごした過去、人、場所、季節、そして感情がありありと蘇るため、その「受け入れ」が喜ばしき負担、嬉しい負担となるからこそ、首を横に降るのかも知れない。

 

 あるいは。

 

 これらの曲は素晴らしすぎて言葉では表現できず、その無力さを思い知るという、曲と自分の非対称性をありありと思い知るという、『感動的絶望』をその時味わうからこそ、首を横に振るのかも知れない。

 

 または。

 

 これらの曲の素晴らしさに、自分はまだまだ追いついていない、理解できていない、憧れていて同等関係ではない(非対称的)であるからこそ、あるからこそ、自分はここにとどまっていてはいけないんだ、もっと高みへ───

 と、『感動的自己反省』を自然と行うからこそ、首を横に振るのかも、しれない。

 

 はたまた。

 

 これらの曲を聴くとき、それは「曲を聴く」という営為ではなく、曲と自分とが『相互浸透』(Pénétration mutuelle   仏哲学者、ベルクソンの術語)し、自分が曲に、曲が自分となっているからこそ、自分が予期しない動き───首を横に振ること───を、するのかも知れない。

 

 

 答えは分からない。

 分からないからこそ、探究(哲学)する甲斐がある。