齋藤孝批判、あるいは身体的センサーについての一考察

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 冒頭から、

 「月40時間以上の残業でも平気」 

  とあるけれど、そもそも彼彼女らはそれくらいの残業を経験したことがあるのだろうか?

 

 残業には様々な種類がある。

 

 自分の為の業務の残業であったらきっと問題ないだろうけど、あまりにも自分の能力を超えている業務や、自分に全く関係ない業務、寧ろ自分ではなく別な人がやるべき業務なのに、その人が理不尽に押し付けてくるであるとか、周りがそんな自分の様子を見て手伝ってくれないとか、ましてや周りに自分から協力を依頼しても無視されるであるというような状況であったら、人材は「壊れる」可能性が高い。

 

 私も経験があるのでそのように思う。

 

 要は、会社員として働く限りは自分に全く関係ないような業務もしなければいけないのは宿命に近いものがある。自営業じゃないんだから。

 

 でも、そんな業務も全部「込み」で熱血に取り組めるのであれば、きっと必ずうまくやれるだろう。

 

 そのためには、齋藤孝がいうところのミッション、パッション、ハイテンションが備わっていることではないかと思う。

 

 

齋藤孝の「ガツンと一発」シリーズ 第12巻 最終指令 ミッション! パッション! ハイテンション!! (斎藤孝の「ガツンと一発」シリーズ)

 

 これは子供向けの書籍であるけれど、大人でも十二分に読むに堪えるものだ。

 

 ミッションとは「これをする為に生まれてきた」という意味合いもあることはあるが、ここではどちらかというと周囲からの頼み事をまるで「ミッション・インポッシブル」の主人公のように、その頼み事に全精力を注いで、

必ず完遂させるぞぉぉぉおおおおぉぉぉぉぉ!!!!

 という内なる思いを燃やすことだ。

 

 パッションは、キリストの「The Passion」、つまり「受難」のことだ。

 ただの熱情、情熱のことではない。

 自分にとって不都合なこと、理不尽なこと、周囲から罵倒、嘲笑されたとする。

 そこでしょげる、落ち込むというよりかは、「来た! 受難!」と、寧ろ喜ぶような姿勢、心構えのことだ。

 「喜ぶ」というとやや語弊があるが、それは踏まれても踏まれても何度でも立ち上がり成長し、最後は綿毛をどこまでも遠くへ飛ばす蒲公英のように気高く、力強く、七転び八起きするぞという心構えだ。

 

 最後のハイテンションは文字通り、上機嫌でいるということ。

 昔から「笑う門には福来る」というが、上機嫌であることで人は集まり、果てには幸福を最大化し、不幸を最小化する効果があるようだ。

 スターバックスがあれほど人口に膾炙して大人気であるというのは、もちろんラテが んまい だけではなく、居心地がいいだけではなく、何と言っても店員さんがみんな上機嫌でにこやかだからだろう。

 

 この、三つの精神をもちあわせていればこそ、あらゆる艱難辛苦を乗り越えられるというようなことを氏は書いている。

 

 しかしながら、仮にどうしたって許せないこと、耐えられないことがあったとして気持ちよりも先に身体が「壊れる」ということもある。十分に、ある。

 

 そういうときはスパッと「次」へいけばいいのであって、この場合はミッションパッションハイテンションを発揮するというより、決断や切り替えという、それとは別の身体的な「センサー」を稼働させる必要がある。

 

 齋藤孝はミッションパッションハイテンションが全てのような書き方をしてしまっているが、決してそれだけでは事足りない。それではやはり「壊れる」恐れがあるのだ。

 「なんだかおかしくないか?」「このままだと体調を崩しそうだな」という身体のセンサーを稼働させておく必要がある。

 

 「壊れない」ためにどうするか?

 「壊れ」る前に、身体的な「センサー」は発動しているか?

 仮に「壊れ」ても、そこからどう回復していくか?

 

 この視点が、齋藤孝の本には欠けている。

 

 仏哲学者のレヴィナスも、「人間はそもそも壊れるものである」と説いている。

 

【現代思想の現在】レヴィナス ---壊れものとしての人間 (河出ブックス)

 

 私は齋藤孝を否定するつもりはない。

 

 齋藤孝の説く三つの精神、ミッションパッションハイテンションは、個人的に大変愛していて、人生の一つの指針としているが、それだけでは足りないのだ。

 

 精神と身体のリソースはどうしたって有限である。

 

 人は必ず死ぬし、愛する人の不慮の事故に立ち直れない友人知人に対して「ミッションパッションハイテンションだよ!」なんてことを説くことはおよそ不可能である。

 

 齋藤孝の三つの精神は、物事に対する向き合い方については大いに適用すべきであるが、人間に対しては、必ずしも適用可能とはならないだろう。

 

 そのことを齋藤孝は承知していたのだろうか?

 

 おそらく彼ほどの人物であれば、そのことは分かっているはずである。

 

 きっと、そのことは子供たちに今後人生経験を重ねるなかで身を以て「分かってもらう」ために、あえてそのことを書かなかったのかもしれない。

 

 つまり、身体的なセンサーというものは教えられるものではなく、経験を積んでいくなかで鋭敏にしていくものなのだ。

 

 身体的なセンサーを鈍感にし、錆らせていってしまうと、人間としての共感能力はもとより、動物的感性、危機管理感性が逓減していってしまう。

 

 

 「こっちに進んだら何か悪いことが起きそうだな。」

 「あの人たちの横を通るとなんだか絡まれそうだな。」

 「ここにいるとなんだか身体がぞわぞわして気持ちが悪いな。」

 

 この身体的なセンサーを常日頃から鋭敏にしていくことが、動物的にも人間的にも健やかでいられる為の大前提ではないだろうか。