私は言葉が好きだ。
フランスワーズ・サガンはかつて、
「私はこの世に存在する言葉の8、9割は好きよ。」
と語ったが、正にそんな感じだ。
しかしその一方で、言葉について非常に畏怖しているところがある。
言葉とは、良きにつけ悪しきにつけ、現実変成能力が非常に高い。
これは哲学者ロラン・バルトを始め、現代では平川克美、内田樹両氏が語っていることである。
言語とは、人間のみが運用しうるものである。
それゆえ、コミュニケーションがすべての生物の中でもっとも高度なものとなり、「より良い」社会の形成、テクノロジーの発展という、連携なしではありえない進歩を遂げてきた。
ここに、言葉がかかわっていないはずがない。
ゆえに言葉とは、人類の歴史そのものなのだ。
しかし、言葉に関して否定的な「言葉」ももちろんある。
例えば本田宗一郎は以下のように語っている。

この言葉をそのまま受け取ると、何も語らず、「男は黙って行動、背中で示せ」ということとなる。
もちろんこれも素晴らしい教育効果を発するものであるに違いない。
しかしその言説が真理だとすると、過去現在未来に存在する作家、評論家、学者、記者という、いわば言葉でご飯を食べている人達を全否定することとなるため、私は完全に同意することはできない。
なにより、本田宗一郎のこの言葉に、私は「ピクッ」となり、このblogを正に今書いている。
それはこの言葉に、人を動かす力があった、ということだ。
それがたとえ自分というたった一人を動かすものであったとしても、言葉で人は動き、人生を変えることになり得るという証左であるに違いない。
ゆえに、言葉の現実変成能力はこれ恐ろしいほどまでに高い、と私は思うのである。
この論理からいくと、いわゆる綺麗事というのは言って恥ずべきことであるどころか、宣言するくらいの気概で語るべきである、と個人的には思う。
綺麗事。
これも大変な問題である。
これ以上書くと結局何が言いたい文章かよく分からなくなる(と思う)ので、綺麗事、という問題に関しては後日また書こうと思う。
ともあれ、今日の結論。
言葉とは、人の人生を変えるほどの影響力を持ちうる。
おやすみなさいませ。