最近、努力というものについて考える機会を得た。
努力。
露伴は、
「努力して努力する。それは真の好いものではない。努力を忘れて努力する。それが真の好いものである。」
と言った。
河井は、
「忙しいのは仕事に任せ、さあさあ我らは楽しみましょう。」
と言った。
そして若林氏は、
「ネガティブを潰すのはポジティブではない。没頭だ。」
と言っている。
このことから考えると、努力とは決して強制されるものではなく、あくまでも内発的、自発的なものであることは間違いない。
ところで、私は同期の中でおそらく最も授業練習(黒板の前に立って授業のリハーサルをすること)をしない人間である。
テキストの方の準備や、ネタを仕込むことはしっかりやるが、授業練習はそれほどしない。
やっても1コマあたり30分ほどである。
別に仕事、授業を舐めているわけではない。
個人的な信念として、「本番が一番の練習になる」と考えているからだ。
いくら練習しても、それはあくまでも練習であり、本番ではない。
本番には本番にしかない「空気」がある。
それを考慮することなく授業をしても、ただのスタンドプレー、誰も聞いていない「劇」となってしまうのではないだろうか。
つまり、授業は、本番というものは常に生成的である。
ゆえに、有る程度「型」ができたら、ネタやコラム的ものを仕入れ、あとは現場の生成的空間を、つまりオーディエンス(生徒たち)との、その時、その瞬間にしか生まれることがない、ここ一回性のものとしての「コミュニケーション」を「楽しむ」ことが筋、なのではないか、と思えてならない。
私自身、半年ほど授業をがむしゃらながらもやってきて、あるていど「型」が決まってきたので、ネタを仕入れることに勤しんでいる。
あとは如何に、どんな現場をも「楽しめる」か、ということかと思う。
努力についての話をしているところだった。
少なくとも私は授業練習にたいする努力は、同期の中では間違いなく最下位である。
しかし、ネタの仕入れというか、読書に対する傾注度は、かなり高いのではないかと自負している。
別に同期と勝ち負けを競っているわけではないけれど、なんだか少しばかり「違和感」がある。
それは「やりたくてやっている」努力か?
それとも「しなければいけないからしかたなくしている」努力か?
もちろん後者の「努力」もすべきだが、
「生きる力がなんとなく高まる感じ」(by内田樹師匠)の努力をしたいし、しなければならないと思うのです。

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