座右の銘。
何だか死語的なものとなりつつあるけれど、今でも何らかのプロフィールで書くことがある(と思う)。
今だと、LINEやTwitterの自己紹介欄で見られる。
例えば、「とびきり素敵な笑顔で!」であるとか、「頭おかしい方が人生楽しい。」などと自己紹介欄に書いている人がいる。
それはオピニオンであり、座右の銘なのだろう。
私にも座右の銘があるが、ちょっと長い。
それは、フランツ・カフカが友人に宛てた手紙の一節だ。
「僕は、自分を噛んだり刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。
もし僕らの読む本が、頭をガツンと一撃して、僕らを目覚めさせてくれないなら、一体なんのために僕らは本を読むのか?
君が言うように、僕らを幸福にするためか?
やれやれ、本なんかなくたって僕らは同じように幸福でいられるだろうし、僕らを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう?
いいかい、必要な本とは、
自分をこの上なく苦しめ、痛めつける不幸のように、
自分よりも愛していた人の死のように、
全ての人から引き離され、森の中へ追放された時のように、
自殺のように、
僕らに作用する本のことだ。
本とは、僕らの内なる氷結した海を砕く斧でなければならない。」
なぜこれを座右の銘としているかというと、このカフカの言葉の中には、以下のような強い想いが隠れていると思うからだ。
「人生の時間は限られている。自分にとって価値にならない、無益な本など読んでいる場合ではないよ。
だから自分を鼓舞し、突き刺し、「こ、、これは……ッッッ!!!!」と思い、自分の思想や行動を本当に変化させるような本を読んでこそ人生はもっともっと波打ち活発になるのだから、それ以外は全て掃いて捨てるべきものだ。」
と。
言い換えると、
「あるモノについての、周りの評価など関係ない。『自分が』強くそれに呼応するかどうかだ。それらを選び取り、日々の生活に活かしていってこそ、「私」が「私」として生きて行く意味があるのではないか。」
というのではないかと私は解釈した。
このカフカの言説、思想については私は満腔の同意を与えざるを得ない。
世の中に無数存在するモノ、作品たちの中で、
先駆的な、
ア・プリオリ的な、
「なんか、、なんとなく、、惹かれるんだよなぁ…」的な、
「これだっ!!! ビビっときたーーーーー!!!!」
的なものだけ(「だけ」となるのは難しいが)を選び抜いて生きて行くことこそが、「この私」(Moi)の生に活動性、唯一性をもたらすと、大学時代から約10年間、内田樹氏、エマニュエル・レヴィナスの文献を耽読してきた経験から、そう思えてならないからだ。
また、そのように内容面からこのカフカの言葉を選んだ、というのもあるが、この長さも好きだ。
こんな長い言葉を座右の銘としている人はまずいないだろう。
「…俺と同じことを考えてるやつはこの世界にまずいないだろう…しめしめ…( ̄+ー ̄)」
というのが、私は大好きなのである。
人と違う財布、クルマ、時計、カバン、などなど。
『そこ』に、唯一性があると思うから。